イレギュラー・バランサー 〜Shiny Black〜 「……はぁ…」 青年はため息をついた。一度目ではない、もう何十回も繰り返している。 その風体は常人と呼べるものではない。 裾がすり切れ、何ヶ所にも穴が空いた血染めの黒いマントを羽織り、森に生える蔓植物を編んだものと思しきロープを使って黒い棺桶を背負っている。 そして十数歩進む度にため息をついているのである。決して息切れではない。 時は真夜中。月は天空高く昇り、針葉樹林の隙間からその光を落としている。 彼は先ほど、長く住んだ村を追い出されてきたばかりだった。 家は燃やされ、彼の持ち物は棺桶に詰め込まれた少量の荷物だけとなっている。 「どこか…とにかく街に出ないと……」 頭の中で地図を広げる。 日光が苦手な彼にとっては光の弱い北国の方がまだ住みやすい。 そういう理由で、彼は目的地をハイゼッテルに決めた。 もう一度ため息をつくと、彼は棺桶を背中から下ろし、その上に腰掛ける。そして、懐から小さな瓶を取り出すと、舐める程度にその中身を飲んだ。 「足りるかなぁ…」 瓶の中身は水ではない。現に赤い色をしている。酒でもない。 人間の血液である。 そういう嗜好の持ち主というわけではなく、彼の主な栄養源がそれなのだ。 今は夜なので普通の食事も可能だが、黒いマントに包まれた彼の身体は処置もされないままの生傷だらけで、手っ取り早く回復するために血液を飲んだのだった。 そう、彼は吸血鬼――しかも人間とのハーフの――、ダンピールと呼ばれる種類の生き物である。 彼は物足りなさそうな顔をしながら瓶のふたを閉め、懐に戻す。そして、月明かりが差し込む場所まで棺桶を引きずっていくと、その上にごろりと寝転がった。 今の傷では無事にハイゼッテルに向かえる保証が無いと判断し、先ず傷の回復に努めたのである。 普段から棺桶の中で眠っていた彼は、初めて棺桶の外で身体を横たえる経験をすることとなった。 「……落ち着かない…」 独りごちながらも彼は微動だにしなかった。 先ほど飲んだ血液と月光が細胞を活性化させていく。 周囲に魔物の気配は感じられないので、今夜はゆっくりと回復ができそうだった。 ただ当の本人は、手持ちの路銀や食料、今後の生活について目まぐるしくシミュレーションを繰り返しては、また幾度もため息をついていたのだが。 朝日が昇る頃には、ほとんどの傷が塞がっていた。 彼はむくりと起きあがると、今度は棺桶を日陰になりそうな岩陰に引きずっていく。 深い針葉樹林の中そうそう日光は当たらないのだが、用心するに越したことはない。 そうしてもう一度棺桶の上に寝転がり、瞬く間に眠りについた。 彼は夢を見た。 白いドレスの女性が彼に歩み寄り、優しく抱きしめる。 『愛しい子』 「……母様…」 『嗚呼、貴方に印を付けましょう。これが我が一族の掟、私を喰らった貴方に印を付けましょう』 抱き返そうとした彼の腕が止まる。 「……母様…?」 『嗚呼、愛しい子。これから貴方の道は茨で覆われましょう。貴方の進んだ跡には薔薇が咲き誇りましょう。呼吸をするのは義務。死ぬまで、いえ死して尚、貴方に絡む茨はほどけない、愛しい、かわいそうな子』 彼の背中に回された手が、突如爪を立てる。 「……ッ!?」 『堕ちよ光、満ちよ闇。刻みつけよ、痛みを。呪いを。薔薇の祝福と十字の怒りを焼き付けよ』 鋭い爪が背中に食い込んで、彼は細い悲鳴を上げた。 「……ッ!」 夕刻、生々しい痛みで彼は目を覚ました。チリチリと背中に痛みが残っている。 (…夢…?) 背中に手を当ててみるが、特に怪我をしているわけではなさそうだった。 「リアルすぎる……どうでもいいけど…」 棺桶から降りると、巻き付けたロープをほどいてふたを開ける。 隅の方に押し込めてあったパンとチーズの塊を取り出すと、脚のホルスターからナイフを抜き取り、一食分を切り取った。 残りの塊を棺桶に戻してふたをすると、やや固くなったパンをかじり始める。 「食料は…これだけ。血液は…あと四本。路銀は…少ない」 絶望的な気分になりながら、彼は少ない食事を済ませた。 安定して仕事をし、生活するのなら目的地を中央に変更した方が良いだろうか。しかし。 「人間の為に働く……」 それは到底無理な話だった。今の彼にとって、人間は自分を裏切り、斬り捨てた存在であり、食糧にしか見えない。 やっぱりハイゼッテルに向かおう、そう決めて彼は棺桶を背負い、姿を狼に変化させると針葉樹の森へと姿を消した。 「あー…。お腹すいた……」 村を出てから早二週間。パンとチーズは最後の一切れをとっくに食べてしまった。 血液の小瓶も空だ。これはまずい。 夜だというのに栄養不足で立ちくらみがする。 「人間さえいれば……」 昔は栄えていたのだろう、廃墟の群れに身を隠し、彼は日光を遮ることの出来る場所に棺桶を下ろした。あちこちから魔物の気配が漂っている。 魔物の血は大して美味しくないが、此処まで空腹にさいなまれるとどうでも良くなってくる。そういうわけで、彼は此処を拠点とした食料狩りを始めることにした。 狼に姿を変えると空気のにおいを嗅ぐ。風上からかすかに漂う血肉のにおいに、彼の身体は弾かれるように走り出した。 いくつかの廃屋を通り過ぎ、大きな通りに出たところで彼の耳に音が飛び込んでくる。固いものが砕ける音と、魔物と思しきうなり声、そしてもうひとつ。 「わっ、ひゃっ、ひゃあああぁぁぁ!!」 (人間…!) 女性のものと思われるその悲鳴に、狼の毛が逆立つ。無意識のうちに地面に爪を立て、彼は再び駆けだした。 (この辺だと思うんだけど…) 立ち止まって首を廻らせた直後、正面の廃屋が轟音を立てて砕け散った。土煙を破って飛び出してきたのは―― (やっぱり、でも、なんでこんなところに…!) 小柄な女性だった。腰ほどまであるウェーブのかかった色素の薄いブロンドの髪に、淡い桃色の瞳――。 そこまで観察するのが限界だった。彼女の後を巨大なスノーマンが追っていたからだった。 (こっちは食べられない…) 当たり前のことだが、スノーマンの身体は雪の塊である。よって彼が口に出来るのは水分くらいなものだった。 (……ここは、悪いけど) この女性を、横取りさせてもらう。彼はそう決めた。 「ひゃあああぁ! こないでええぇぇぇぇ!!」 逃げるのに精一杯なのだろう、女性の視界に彼はまともに映っていないようだった。 その時。 「わっ!?」 女性の身体がよろめき、地面に倒れ込む。 それを目がけて飛びかかろうとした魔物と女性の間に、彼は一跳びで割り込んだ。 第三者の介入にスノーマンは少なからず驚いたようで、動きを止めて狼を見下ろす。 「!! わんちゃん…!?」 (狼だよ) 「わんちゃん、ダメだよ危ないよ!」 (……違うったら) 危ないのは君のほうでしょう、と胸中で付け加え、彼はスノーマンを睨み付けた。 『ナンダ、オマエ ?』 魔物の問いかけには答えず、彼は低く唸った。 その意味はスノーマンの方にも伝わったようで、標的は狼へと移される。 一呼吸の間の後、両者が一斉に地を蹴った。 彼を踏みつぶそうと跳躍したスノーマンの動きを読み、その巨体を横っ飛びで避ける。地面に爪を立ててブレーキをかけると、今度は彼が魔物へと飛びかかる。斜めに傾いた身体を天辺まで駆け上がると、勢いよく鬼の面に噛み付いた。 痛みを感じているのかは不明だが、スノーマンは吼えて身体を振り回し、狼を振り落とそうとする。一方の彼も面に食らいついたまま離さない。 なんとかもう一度頭頂部に這い上がると、魔物の脳天を思い切り食い破った。 (……まっず) やはりただの雪の塊だった。ペッと雪を吐き出すと、窪んだ頭に向けて強く息を吹きかける。その吐息はあっという間につららとなって魔物の頬のあたりへと貫通した。 途端、スノーマンが横に倒れる。 転がって攻撃するつもりなのだろう。そう読んで着地した彼の予想を裏切り、スノーマンは明後日の方向に転がり始めた。 「わわわっ!」 スノーマンの向かう先には、先ほどすっ転んだままの女性の姿が。 (なんでまだそこに居るんだよ!!) そう思うが早いか否か、彼は全身のバネを限界まで伸ばしスノーマンを追う。 転がる巨体をギリギリで追い抜き、女性の襟元を咥えると速度を落とさないまま―― 「ぐえっ、うぉぇっああああぁぁ!!」 隣の廃屋の窓を目がけ、全力で放り投げた。 遠心力で首が絞まったらしいが、圧死しなかっただけマシだと思ってもらいたい。 悲鳴を上げながら飛んでいく女性を後ろ目に、狼は魔力を集中させて毛を逆立てた。 魔物と彼がぶつかるすんでの所で、分厚い氷壁が出現する。 巨体が生み出すエネルギーで氷壁にヒビが入るが、スノーマンも同じような痛手を受けたらしい。ヒビ割れた面と身体でよろりと起きあがると、怒り狂って吼え始めた。 『オオオォ、オ、オデノ、オデノ、ニクウウウゥゥッ!!』 「もー…。こっちだってお腹すいてイライラしてるのに、うるさいよ」 魔物の咆吼に対して狼はぼそりと呟くと、新たに魔法を構築する。 バリバリと音を立て、空中に巨大な氷の槍が形成されていく。そしてその姿が完全に現れた瞬間、彼は氷壁を造っていた魔法を解除した。 まるで矢を射るように槍が発射され、スノーマンの腹部を貫いて深々と地面に突き刺さる。 『ガアアアァァァッ!!』 魔物は今度こそ動けないらしい。生きてはいるが、標本のように地面に縫いつけられている。 槍をそのままに、吼えるスノーマンを無視して狼は歩き始めた。 (ああ、居た居た) 投げ込んだ廃屋の二階、部屋の隅に女性が縮こまっていた。 ジャリ、という足音に彼女はハッと顔を上げる。白くて長いまつげが目を縁取っていた。 先ほどの様子からすると民間人だろうか、ぴったりとした黒い服で全身を包んでいる。 「あ! わんちゃん!」 さっきはありがとうねぇ〜、などとはしゃぎながら、女性は彼の頭を撫でまわした。 (……どうしよう) 食べてしまう予定だった。彼女の体格とこの空腹具合では、恐らく致死量の血をいただくことになるだろう。しかし、助かったことに心底喜んで狼の首に抱きつく女性を殺してしまう気には、なれなかった。 「ありゃ? わんちゃん、尻尾二本だねぇ」 彼はドキリとした。常人ならここで彼を魔物の類と勘ぐって警戒するだろうからだ。 だが。 「ふっさふさー! もふもふー! わんちゃんありがとうねぇ〜!」 (なんでこんなに脳天気なんだ……) その脳天気さが彼を躊躇わせる。それともうひとつ。 (……あったかい) 女性の手から伝わる体温が、躊躇いの理由だった。 見逃すか? しかし彼女は彼を裏切った『人間』だ。 過程はどうあれ、飛び込んできた幸運を逃していいものか? これを逃したらまともな『食糧』にありつけるのはいつになるのか―― 「ありがとうねぇ〜!」 (……もう、眩しくて見てらんないよ) 彼の中の『人間』が、この幸運を手放すことを選択した。 最後まで通りすがりの狼を演じて、後のことはもう考えないことにする。 そう決めて、女性にされるがまま、身体の力を抜いたその時。 ズン…、と建物が揺れ、天井からぱらぱらと破片が落ちる。 「え…っ、な、なんじゃ…?」 女性は立ち上がり、怯えを含んだ声を上げる。無理もない。振動が確実に大きく、近くなっているのだから。 狼は部屋の反対側に向き直り、身体を低く構える。 二人が居た対角線側付近の床が吹き飛び、女性が悲鳴を上げるのにそう時間はかからなかった。 『オオオオォォ! ニク! ニクウウゥゥッ!!』 穴から飛び出してきたのは、ヒビ割れた鬼の面。 天井をも突き破って部屋に着地したのは、間違いなく先ほどのスノーマンだった。 あの槍から無理矢理抜け出してきたらしいその身体は、崩れる寸前まで来ている。 (なんて執着心だよ…!) 固まってしまった女性の黒い服を強く引っ張ると、彼女は青い顔をしつつも頷いて部屋の外へ走り出した。 女性に続いて部屋の外へ出ると、彼は部屋の入り口を氷壁で塞ぐ。 しかし、魔物の体当たりで廃屋の壁は崩れ、氷壁も意味を成さなかった。 しかもあろうことか、飛び出してきたスノーマンの位置が悪かった。階下に続く階段の真正面を陣取られてしまったのである。 仕方なく、彼は女性を先導して廃屋の上へと駆け上がる。 時折女性を待っては誘導し、二人は四階建ての屋上へと辿り着いた。 「わ、わんちゃん…どうしよう…!」 廃屋は低い音を立てて揺れ続け、みしみしと足元のコンクリートが悲鳴を上げる。 どうやら魔物は階段を破壊しながら上ってきているらしい。 (トドメ刺しとけばよかった…) 『ニク、ニク…』と呻く声を聞きながら彼は後悔するが、最早後の祭りである。 そして、とうとう鬼の面が飛び出してきた。魔物に破壊された建物の一角が崩落する。 ズシン、と欠けた巨体を揺らし、スノーマンが二人に迫った。そして―― 「わっ、わんちゃっ、きゃああああぁぁ!!」 スノーマンの重量に耐えきれなくなった廃屋が、とうとう本格的に崩落した。それに伴い、女性の身体が中に投げ出される。 狼は女性の居た位置に駆け寄ると、落下する瓦礫の合間を縫って自らも飛び込む。 「えっ…? わんちゃん…?」 「狼だってば」 彼は空中で元の姿に戻ると女性の手を掴み、強く引き寄せるとマントの影に彼女を押し込んで、布地にちょっとした強化呪文を唱えた。 驚きを隠せない女性を抱きかかえたまま瓦礫を足場に数回跳躍すると、彼はよろめきながらも地面に着地した。 完全に崩れ落ちた廃屋と土煙を見て、「さすがにアレはトドメになったでしょ」と呟く。 現に、先ほどまで満ちていた殺気はまったく感じられなかった。 「ね、ねぇ…?」 「何?」 「あなたは、何…?」 「吸血鬼だよ。半分は人間だけどね」 地面にへたり込んだ女性を何気なく見下ろしながら、彼の目がある場所に留まる。 転んだときに擦りむいたのだろうか、彼女は膝から出血をしていた。 (血の、色…、におい…!) それを認識した途端に彼の視界はくらりと歪んで、女性と同じく地面に膝をついた。 「ど、どうしたの!?」 「なんでも、ない。助かったんだから、早くどっかへ行ってしまえよ。それとも僕に食べられたいの?」 空腹が再び主張を始める。 逃がすことを決めたのだ、その血を早く視界の外へ消してしまいたかった。 「さっきので怪我…? 血まみれじゃないの!!」 そんな彼の意図が伝わるはずもなく彼女が指し示したのは、ボロボロになったマントだった。 確かに血まみれではあるが、身体はほとんど無傷の状態だ。 「いや、これは」 「手当しなきゃ! ほら、脱いで脱いで!」 「えっ? ちょっ、僕の話を…!」 本能と理性がふらりふらりと行き来する。 先ほどの戦いでほぼ体力を使い切ってしまった彼は、女性に言われるままにマントを脱いだ。 「ちーがーう! シャツも! 全部脱ぐの!」 「えっ」 抵抗する力もなく、あっという間に彼は上半身の衣服をはぎ取られた。 「ありゃ…? 怪我は…してない……けど」 「? …けど?」 「どうしたの? この刺青」 「刺青…?」 「うん…バラと、十字架がひっくり返ったやつ」 背中一面にあるよ? と言われ、身に覚えのない彼は首を傾げた。 (薔薇と…逆十字? ……あの、夢…?) 『嗚呼、貴方に印を付けましょう。これが我が一族の掟、私を喰らった貴方に印を付けましょう』 (印…。そうか、これが『共食いの呪い』、か…) どおりでリアルなわけだよ、と彼は自嘲気味に笑った。 吸血鬼の間で暗黙のルールとされていることの一つに『共食い』がある。 上級、または最上級に分類される吸血鬼の血は、当然人間のそれよりも得られる力が強い。 しかし、力を求めてお互いに食い合っていては種が滅んでしまう。そこで作られた掟が『共食いの禁止』だった。 吸血鬼の遠い始祖達は掟を作ると同時に『呪い』を作った。もしもこの先、掟を破る者が出たとき、その者が一族の恥として処分されるようにと。つまり、呪いを受けた吸血鬼は一族皆から村八分、ということである。 また、吸血鬼は魔物でありながら人間との間に子供を作ることができる。そして、生まれてくる子供はダンピールと呼ばれるのだが、遺伝子の中には何故か『吸血鬼を殺せ』という命令が書き込まれているのが常だった。 吸血鬼達の間では、それは種の数を一定に保つための自然の摂理と見なされ、吸血鬼とダンピール達は親子でありながら殺し合いをする場合も少なくない。それも、吸血鬼達の暗黙の理解であった。 人間との間に子を成した吸血鬼の中には、我が身を守るため、同族を守るため、そして――かつて白薔薇と呼ばれた吸血鬼のように――愛するが故に我が子を殺してしまう者も多く、それ故ダンピールの数がそれほど増えることもなかった。 また、吸血鬼は『人間が混じった生き物』であるダンピールを『同種』とは見なさない。故に、吸血鬼がダンピールの血肉を喰らっても『共食い』には当てはまらないのである。 しかし一方のダンピールは違う。『吸血鬼が混じった生き物』でもある彼らが吸血鬼の血肉を喰らう事は『共食い』と見なされ、一族から呪われるのである。 先日、遺伝子の定めと人間の計略によって母を殺し、その血を飲んだ彼は掟どおりに呪われ、その刻印として薔薇と逆十字の紋章を背負わされたのであった。 何故白薔薇が自らの血を飲むよう促したのかは、今となってはわからない。 彼女を殺した彼への報復か。果たして。 ただ一つ確かなのは、彼が吸血鬼を味方に付けることが出来なくなったという事だけだった。 「これは…ますます生きにくい」 「んん? どういうこっちゃ?」 女性に顔を覗き込まれて我に返り、彼は「しっしっ」と手を振った。 「お腹すいてるんだよ。それで、僕はダンピールなの。挙げ句、君は出血してる。どういうことかわかるでしょ? だからさっさとどこかへ…」 「腹が減ってるのか! だったら、ホラ! これ!」 つくづく人の話を聞かない女だ、と彼は思いながらシャツを羽織り、女性が差し出した包みを見つめた。 「おやつに持ってきてたんだけど、助けてもらったし! わんちゃんにあげる!」 「は?」 「クッキーだよっ」 彼はどこから突っ込んで良いのかわからなかった。 そもそも、何故この女性はこんな町外れの廃墟に一人で居た? 廃墟に持ってくる物が、おやつのクッキー? というか、わんちゃんじゃない。 彼はその場にバタリと寝転がると、呆れと諦めの混じった目元を左腕で隠し、右腕を女性に突き出した 「……?」 「……それ。くれるんでしょ」 「おぉ! あげるあげる! あたしの手作りだー」 満面の笑顔になった女性とは対照的に、その言葉に若干の不安を覚えながらも包みを受け取ると、彼はため息をついてそれを傍らに置く。 「ねぇ。なんでこんな所に居るの」 「石を拾ってたんだー」 「石?」 「砕くと良い色の画材になるんだぞー」 「だからってこんな夜中に、魔物が出る廃墟に普段着で来るのは普通に考えておかしい」 「だって月の光が当たらないと他の石と見分けられないんだもん!」 とにかく、一つめの突っ込みが終わった。 左腕はまだ目元を隠したまま、右手で包みを器用に開くと、彼は寝転がったままクッキーを口に運び、ボリボリと咀嚼する。 「……なんでクッキー?」 「あたしが一番得意なお菓子だぞ! あと疲れたときには甘いものがいいんだ!」 得意と言い張るだけあって、確かに不味くはない。 むしろ空腹も手伝ってかなり美味しい。 「遠足じゃないんだから……」 二つめの突っ込みも終わったところで、彼はもう一枚クッキーに手を伸ばし、口へ運ぶ。 まだ、一番重要な突っ込みが残っている。 手早く咀嚼し、飲み込んでしまうと彼は口を開いた。 「……それと」 「?」 「……煌夜」 「へ?」 「わんちゃんじゃない。僕は……煌夜」 「煌夜? 煌夜!」 クッキーを食べながらちらりと女性を盗み見ると、彼女は彼の名を連呼してはしゃいでいる。 (なにがそんなに嬉しいんだ…) 「煌夜…煌夜…。そうだ! こうたん!」 「…は?」 「煌夜だから、こうたん! ねっ、そう呼ぶね!」 200年を超える年月を生きてきたが、愛称で呼ばれたことなど一度もなかった。予想の範囲を大きく超える出来事に、クッキーを運ぶ手が思わず止まる。 初めての愛称が『こうたん』、しかもそれを考えた女性の名を、彼はまだ知らない。 (名前を聞こうか? いや…、もうすぐに別れる『人間』の名を聞くのは無意味だ) こんなに短い間に、こんなに何度も迷うことなど今までにあっただろうか? 無い。 どうも調子が狂う。 (……あぁ、そうだ。昼間みたいだ。眩しいときは、大体思考がまとまらないんだ) 煌夜はもう一度、腕の影から女性を見つめた。クッキーを食べ進めてくれているのが嬉しいのか、彼女は「こうたん、こうたん、美味いか? なぁ、美味い?」と言いながら満面の笑顔を浮かべている。 (やっぱり、眩しい) 今度こそ視界を腕で遮ると、彼は黙って残りのクッキーを頬張る。 (……でも) (眩しいのに。変だな、『人間』なのに。) (悪い気分じゃ、ない) ++++++++++ 彼女は、彼を裏切った『人間』だけれど、『彼を裏切った人間』ではないよ、というお話。